あの日、あの時。
私はこの時期になると、「頑張れー!」という女性の叫び声が頭の中に響きます。
バタバタと走る救急隊員に囲まれながら、私はタンカーのまま救急車へ運ばれました。
7月8日は娘の誕生日。
私にとって第二子に当たり、長男とは10歳違いの子供です。
妊娠初期から成長が思わしくなく、中期に入っても不安が続き、胎動もほとんどない状態でした。
念入りにエコーで診てもらってもはっきりとした原因はわからず、さらに不正出血があったことから切迫早産と診断され、妊娠8ヶ月の時に3週間あまり入院をすることに。
逆子にもなっていたため、帝王切開の心構えもしなければなりませんでした。
もし万が一、超未熟児として出産する場合は、NICUのある病院への転院の必要なども説明され、色んなことを覚悟しなければならない状況に。
ただ、その時点でも、あんな展開になるとは思いも知らなかったんです。
そして、その日は突然やってきました。
いつものように赤ちゃんの心音エコーを取っていたのですが、確認に来た看護師が顔色を変えたんです。
すぐに医師もやって来て、緊迫した状況に。
赤ちゃんの心音が弱まっているから、急いで帝王切開をしなければならない。
そのために、別の病院へ救急搬送しますね、と告げられました。
頭が真っ白になりつつも夫に連絡を取り、夫は学校へ息子を迎えに行き、2人が病院に到着。
その直後、私は救急隊員によりタンカーに乗せられて運ばれます。
呆然となっていたその時、廊下から「頑張ってー!」と叫ぶひとりの看護師さんの声が私の耳に届きました。
私よりも大きなお腹を抱えながら、親切にお世話をしてくれた妊婦の看護師さんの声でした。
顔を動かしてよく見ると、その横には不安そうな表情の担当医師も。
(あれ、もしかして、、もう会えないの?この病院には戻れない、、のか)
と未だ現実を受け入れられないまま、2人に見守られながら別の病院へ搬送されます。
およそ20分程度だったと思うのですが、救急車の中で過ごす時間がとてもとても長くて。
びっしり並んだボタンやよくわからない器具をジロジロ観察して過ごしました。
その後私は、搬送先の病院で帝王切開を受けて出産しますが、その日は娘の顔を見ることもなく、それどころか残酷な病気の報告とお腹の痛みに苦しみます。
そして翌日、私はまた別の病院へ搬送された娘を追いかけて、転院することに。
搬送される直前、初めて娘と対面をしました。
帝王切開の傷の痛みを抱えながら、毎日娘の死と向き合う日々が始まります。
あの日、あの時、腹の底から全身全霊の声で叫んでくれた看護師さんには、心からありがとうと言いたいです。
そして、私もあなたに「頑張って」と伝えたかったことも。
2つ目の病院の看護師さんや先生たちも、私が車に乗り込むまで「頑張って!」と励ましてくれました。
(それにしても帝王切開ってなんであんなに痛いの?!私だけに限らず、翌日から歩かされるでしょ?もう死にそうに痛いですよね!?)
だからこそ、あの時の声援は本当に励みになりました。
病院の出口まで車椅子で運んでくれて「大丈夫?大丈夫?」と不安な声で何度も問いかけてくれた方の声も覚えています。
今こうして娘が天国に旅立った今でも、私の記憶に色濃く皆さんの声援が残っています。
今では私の生きる原動力となり、娘に会いたくなってしんみりした時も「頑張れー!」と頭に響いています。
この記事は、あの時関わってくださった方々に、お礼を伝えたくて書きました。
魚沼病院(現・小千谷総合病院)、長岡綜合中央病院、長岡赤十字病院の医師と看護師さんたちに、感謝を申し上げます。